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執筆者の写真プラモ尼崎城

【オリジナルを見る/見れない】

11/2(金)から、いよいよクラウドファンドに挑戦するプラモ尼崎城です。


「お城のプラモデルを作っているのに、なんでシャチホコなの?」というみなさんの素朴な疑問に答えられる知識を得ようと、尼崎市立文化財収蔵庫(注:耐震補強工事のため休館中)を訪問しました。こちらは尼崎城で使われていたシャチホコを収蔵・展示する市内で唯一の施設です(ということは、世界で唯一かもしれませんね)。


出迎えてくださったのは、室谷公一さん。時代別に担当が分かれている学芸員の中で、約300年という長期間に及んだ江戸時代を担当されています。「私は城の専門家ではないのですけど」と前置きしながら、語ってくださいました。



「シャチホコというと天守閣の大屋根(最上階)の上にあるというイメージですが、当時の図面を見ると上から二番目の三層目の破風の上にも置かれており、天守閣だけで四つの鯱があったことが分かります。尼崎城は天守が四つ、さらに櫓が11もある城で、それぞれに鯱が乗っていました」


なんと、いちばん大きな四層の天守だけで四つの鯱がいたという事実。しかも、四つとも大きさが違って、その比率は10:8:6:4。対になる鯱は雄と雌のセットだったそうです。では、この現存する鯱はどこで使われていたのでしょうか?




「残念ながら、それは分かりません。大きさから推測すると、四層の天守閣の大屋根で使われていたものではないことだけは確かです」


四つの天守に囲まれた本丸の中に建てられた御殿の鬼瓦には、はっきりと「大廣間用」という文字が刻まれたものもありますが、残念ながらこの鯱には何も書かれていません。これが創建時のものなのか、補修時に設置されたものなのかもよく分からないといいます。


ところで、この鯱ですが、空想上の生き物であるにも関わらず、体つきには魚の特徴が色濃く出ていて、顔つきには狛犬っぽい親しみやすさを感じます。


「造形的な特徴を語るには、美術の視点や当時の製造技術にも目を向ける必要がありますね」という室谷さん。たしかに、現在はガス窯など温度管理も思いのままですが、当時これだけ大型のものを薪で焼いていたはずですから、興味は尽きません。



室谷さんからは、プラモ尼崎城へのご提案もいただきました。それは、「商品化するなら現在の平成の城ではなく、江戸時代の四つの天守のある尼崎城を作った方が喜ばれるものになるのではないか」ということです。全国の城マニアは、江戸時代の城にこそロマンを感じているはずだし、「本当はこうでした」と説明するにもよいツールになるというのがその理由です。


尼崎城は建設当初から補修工事に至るまで、当時の記録が残っているのが特徴のひとつでもありますから、そんなアプローチも考えられるのですね。大きな宿題をいただきました。


じつは尼崎にはもうひとつ、鯱が現存していると聞き、持ち主である櫻井神社を訪ねました。こちらは現在建設が進む平成尼崎城の目の前にあり、実際城とのゆかりも深い神社です。神主さんに事情を話して見せて欲しいと頼みましたが、「公開はしておりません」と、けんもほろろに断られてしまいました。


〈尼崎城開城まで、あと156日〉

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