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【シャチホコの専門家を訪ねて】

まずは尼崎城のシャチホコプラモの進捗から。3Dデータが完成し、金型の設計に移りました。詳しくは、また追ってご紹介します。


今回は、尼崎城のシャチホコについて書きたいと思います。以前にも、尼崎市立文化財収蔵庫にコメントをいただきに行きましたが、確たる事実はわずかで「良く分からないということが分かった」という結果に終わりました。


その後も我々は調査を続け、なんとお隣の伊丹市にシャチホコの研究者がおられるという情報を得て、伊丹市役所を訪ねました。



社会教育課でにこやかに迎えて下さったのは、課長の中畔(なかぐろ)明日香さんでした。なんと、シャチホコを専門に研究されている「全国的にも珍しい」(本人談)方です。


その中畔さん、開口一番に「シャチホコという呼び方はアウトですよ?」とぴしゃり。正確には「鯱(しゃち)」または「鯱瓦(しゃちがわら)」と呼ぶのだと教えてくれました。「天守閣」というのは最近の呼び方で、正しくは「天守」と呼ぶのと同じ感じですね。なので、この原稿では「鯱瓦」という呼び方で統一します(パッケージ案には堂々とカタカナで「シャチホコ」って書いちゃいましたからね…)。



鯱瓦は、鎌倉時代に制作されたと伝わる「男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)」という絵巻物に描かれたものが現存最古とされています。この鯱瓦が載る建物は、城ではなく寺です。鯱瓦は室町時代に織田信長が発明したという俗説があるそうですが、それ以前から鯱瓦はこの世にいたことが分かります。


ちなみに、「鯱」という漢字は日本にしかないそうで、虎魚(オコゼ)の漢字を入れ替えると「魚虎」となり「鯱」の字になることから、モデルはオコゼかもね、なんて話も。さらに、こちらの鯱は体と目の部分の色が異なっていることから、もしかすると当初は瓦ではなく、かつ着色されていた可能性もあるそうです。



男衾三郎絵詞に登場する鯱ですが、絵を見ると棟を噛むように設置されています。江戸時代には鯱瓦は「鴟吻(しふん)」と呼ばれていました。噛みつく特性を示す「吻」という字が使われていることからも、その特徴が伺えます。


では、尼崎城の鯱瓦にはどんな特徴があるのでしょうか?全体的なフォルムとしては魚の特徴をよく残しており、部分ごとに見ていくと、瞳に穴が開いている(開いていないものが一般的)/鱗の造形は節を意識している(スタンプ状のものもある)/牙は円錐形(獅子舞のように四角いものもある)であることなどが特徴なのだそうです。


さらに中畔さんは「飽くまでも見た目の印象でのコメントですが」と前置きをした上で、宇治にある平等院鳳凰堂の下り棟の龍頭瓦と表面の風合いや造形が似ていると教えてくれました。ひょっとして、平等院と尼崎城の瓦は同じ職人が?と浮き足立ってしまいましたが、それは早計のようです。


鯱瓦は、「鬼師(おにし)」と呼ばれる職人が作りました。補修を効率的におこなうために、城の近くに工房を構えることが多かったようです。当然、城が違えば鬼師も変わるので、各地の鬼氏が腕によりをかけて作った結果、全国各地の鯱の意匠は違うものになりました。そのため地域ごとの傾向や関連性を見出すのは難しいのだそうです。


鯱瓦に地域性が出るのは、意匠よりむしろ素材。改修を経て瓦から銅板葺きに変わった江戸城、石造りの丸亀城、日本海側にある松江城では雪や寒さに弱い瓦に代わり寄木造と銅板でつくられています。


また、焼き物としては巨大な鯱瓦は焼成時の収縮が大きいためひずみやひび割れが起きやすく、造形だけでなく焼くための技術も必要でした。「1本瓦」と呼ばれる、1つの部品だけでできているものならまだしも、複数の部品を組み合わせて作る場合は、組み合わせもクリアしなければならない分、さらに大変です。尼崎城のまわりにどんな瓦屋があったのか調べていくと、さらなる事実が浮き彫りになるかもしれません。


「城郭の瓦の研究では、家紋の入った鬼瓦のほうが本流なんです」という中畔さん。当時の家紋入りの瓦の発注書には、意匠や個数について細かく指示が入り、城主が満足しなければ作りなおしを命じたりと、実に神経をとがらせて作っていたことがうかがえます。一方、鯱瓦は鬼瓦より目立つ割に鬼師の自由度が高かった(ように見える)のがおもしろいですね。


尼崎城の鯱瓦のみならず、鯱瓦そのものの歴史についても詳しく教えてくださった中畔さん。「鯱の形のチョコレートやロウソクがあっても楽しいですよね」という新たなアイデアもさりげなく差し込んでくるあたり、ただ者ではなさそうです。そのアイデア、もちろんいただきます!

<尼崎城開城まで、あと40日>


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